2012年11月6日火曜日

2013年の手帳。

毎年この時期になると、来年の手帳を選ぶのがちょっとしたたのしみです。で、例年は文具店や書店をかなりうろうろするのですが、今年は書店を2件みただけで、結局はamazonさんでぽちっと注文してしまいました。選んだのは、石井ゆかりさんの星ダイアリー2013

ここ数年は、自由ページがたくさんあって、自分にあったスケジューリングがしやすい手帳を、という基準で選んでいました。が、2013年は外出先でたくさん文章を書くってことはしないような気がするし、ちょっとしたことならiphoneに書けばいい。予定もそんなにたくさんいれないし、だったらやっぱりiphoneで十分。

一方で、常々気になってスケジューリングにとりいれてみたかったのは、月のリズム。なんだか妙にイライラすると思ったら新月で、眠れないようなちょっと緊張した感じがすると思ったら満月で、と月のリズムと自分の心身のリズムの関係に気づいた経験が少なくないので、で、その度にあらかじめ対策しておけばよかったなあと思うことが多いので、2013年は月を意識して過ごしてみることにしました。

この星ダイアリーには、毎日の月齢はもちろん、月のボイドタイム(月が次の星座に入るまで他の星とアスペクト(特別な角度)を作らない時間帯のこと)、さらには月齢と古くからの伝承、おすすめの過ごし方、が書いてあります。例えば今日は、十六夜(いざよい)月〜寝待月の期間にあたります。
月は満月の後、少しずつ欠けていきます。欠けるに従って、空に出る時間も少しずつ遅くなっていきます。
この、満月から下弦の半月のあいだの月は、長期的に養いたいものを作り始めるのに適している、とされています。長い時間をかけて育てる植物を植えたり、長期的に使いたいと思うものを購入するのによい時、と言われます。ゆっくりじっくり始めることが、この時期に適しているのかもしれません。ここから細っていく月に擬え、ダイエットを始めるのにもよい、と言う人もいます。(p.182)
と、読みどころ満載の手帳なのですが、こういう話を読むたびに面白いなあと思うのが、心理的時間は単なる直線だけでなくて、円にもなりうるということ。昔の人たちの時間と私たちの時間を直線で結んで昔と今、とすることもできますが、月を眺める昔の人を想う時、昔の人たちの時とわたしたちの時は同じ円上の点として重なります。

こうした円形の時間感覚はもちろん、月だけでなく太陽や他の星々の動きについてもいえることで、星ダイアリーはそれをまるごと感じさせてくれる手帳といえるかも。月だけでなく、他の星々の動き、ホロスコープ、その解釈も書かれてます。

それにしても。一年のこの時期に来年一年の星占いだけではなく、毎月の星占いを読んでしまったなんて、もしかしたら初めての経験かも。笑

関連リンク
星ダイアリー2013 :: 幻冬舎コミックス

2012年9月20日木曜日

家電なiphone?

残暑厳しい毎日ですがみなさまいかがお過ごしでしょうか?わたしはというと、この夏、あまりの暑さに家の畳の部屋でごろんとすることが多くなったのですが、そんな「ごろん」のおともはというと、冷たい麦茶にクッションとタオルとタオルケット、そしてiphone。huluで海外ドラマや映画をたっぷりと観てたのしんでいます。

ところで先日、iphone5が発表されましたが、これまでと比べて画面が大きくなったのはとてもウレシクそして激しく納得。iphoneで動画を観るのって、文庫本で本を読むのにも似て、なかなか便利で快適なのですが、欲をいえばやっぱり画面が小さい。もうちょっと、ちょっとだけ大きいほうがいいな、特に字幕を読みたいときは、と思います。

さらに。持ちやすさ、という意味では、文庫本の余白にあたる部分がもっとあるといいなと思っていたところ、iphoneを丸みのある石の上に落として画面にひびが入る、という事故が重なり、以前よりプロテクト度が高そうなiphoneカバーというかバンパーを新しく入手するに至りました。上の写真は、そのバンパー(というより、もはやスタンド?)、Arkhippo2を装着してみた図です。

で、その後のiphoneの使い心地はどうかというと、動画を観るのが以前よりぐっと快適になった分、iphoneを観てる時間が長くなったような。このバンパーはかなり厚みがあり、ちょっとした重みも手伝って、iphoneを持ちやすくなりました。一方で、iphoneを持ち歩いて写真を撮ることが激減。石けん箱ぐらいの大きさがあるので、ポケットにはいらなくなり、また見た目、テレビのようなラジオのような、「ちっちゃな家電」な感じがするせいか、持ち歩こうと思うこと自体が減ったような。iphoneってカバーがかわるだけでこんなに使い方が変わってしまうのか、と自分でもちょっと驚いています。

ちなみに、以前のバンパーはというと、もちろん今でも使えるし、いつでも付け替えればいいのですが、よく見てみるとかなり汚れて傷もたくさん。石の上に落とす前も何回も落としていますが、それでも本体が壊れなかったのはこのバンパーのおかげかも。

それにしてもiphoneってなんでこんな壊れやすそうな素材でできてるんだろう…。


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iphoneにバンパーを。

2012年8月30日木曜日

坂本龍一+河邑厚徳 編著『エンデの警鐘 「地域通貨の希望と銀行の未来」』

『エンデの遺言』の続編ということで読んでみました。特に、番組で紹介されていた地域通貨についてもっとよく知りたかったというのがこの本を読んでみた動機です。詳しすぎてちょっと読みにくいところもありましたが、「人のシアワセに通じるお金の使い方とは何か?」について考えさせられる、かなり刺激的な読書でした。

「お金」はあまりにも身近なものだけに、自分や他の人がそれをどのように使っているのか、またその使い方によって、自分たちの生活がどう影響されているのか、見えにくい部分があると思います。この本では、お金の歴史や経済学説、さまざまな地域通貨の実践例、「銀行」の問題点とそれを修正しようとする試みを紹介して、多角的に「お金」について考えさせます。

読んでるとだんだん、現代の金融システムを続けていくと地球は人の住めない星になるかも、食料は一部の人しか手に入らなくなるのかも、という気持ちに。といっても、現代の金融システムの常識はそう古くからあったとは限らず、たとえば、「お金が利子を生む」ことになったのはこの100年ほどのことで、なんと、キリスト教、イスラム教、仏教の世界三大宗教では、1000年以上にもわたって金利は不法だとしてお金に利子をつけることを禁じてきたとのこと(p.35 第一章 未来を奪う経済学)。さらに、デンマークやスウェーデンといった、エネルギー先進国では、無利子銀行の試みがあり環境問題に寄与していたこと(第五章 オルタナティブな銀行が始まった)、脱原発を宣言しているドイツでは1988年に誕生した「エコバンク」が、環境のためのプロジェクトに投資する一方で、原子力産業には出資しないというスタイルをとっていたこと(第六章 環境と共存めざす銀行・地域を支える銀行)を知ると、現代の金融システムは絶対的なものではなくて、人々の意識次第で変えていくことができるかも、とほんのり希望を抱きました。

もちろん、こういうことはまずは自分から、ですが。

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『エンデの遺言』

2012年8月10日金曜日

『エンデの遺言』

今はすこし世論が変化してきた感がありますが、ちょっと前までは原発を止められない理由として「経済的ではないから」という説明をよくきいた気がします。そういわれると、「んー、経済には詳しくないしよくわからないけど、単純に考えて原発をやめると電気代が高くなって、そうすると多方面に影響が出るってことかなあ」となんとなく納得しそうになりますが、そこで原発のしくみをみてみると、燃料はそんなに「量」としてはいらなさそうだけど、なにしろ装置が大掛かりで制御が大変そう。しかも核廃棄物とやらがでてきて、その処理については、途方もない時間がかかることはわかっているけれども(10万年?)最終処分場は決まっていない状態。

ん、そもそも、原発ってなんで電気代が安くてすむんだろう?国が応援してたから比較的安いっていうのはわかるとして、発電した後の、核廃棄物の処理を考えたらとんでもなくお金がかかるのでは…。でもこれは、後のことだから考えないことにしたのかしら?モノの代金に、それを捨てるための費用がはいってないのと同じこと?ってことは、捨てる部分の負担は消費者、電気を使うわたしたちがするってことになるのかな?あれれ、核廃棄物って誰のもので誰の責任になるの?

前置きが長くなりました。この頃やっと「経済」と「環境」について考えるようになったわたくしですが、最近になって、子どもの頃の愛読書の作家、ミヒャエル・エンデが10年以上前にもうこの問題を考えて、で、NHKが番組をつくって本も出してだったことを知りました。で、まず、1999年に放送されたという番組を見てみたところ、無茶苦茶面白かった!!













2008年のリーマンショックあたりから感じていた、「そもそも今の経済システムっておかしいのでは?」という疑問に少し答えをもらえたような。ジゼルの「老化するお金」の話には、概念自体にいい意味でショックを受けました。

この番組で特に面白いのは、地域通貨のお話。利子がつかないことで循環するこうしたお金は、大恐慌後、1930年代に各地で発行され、地域経済を活性化したそう。具体的には、オーストリアのヴェルグルで使われた、「老化する(時間とともに価値が減る)お金」、アメリカのイサカアワー、ドイツの街ハレのデーマーク、スイスのヴィアの例が紹介されていました。どの通貨も購買力をその地域にとどめる働きがあるよう。

原発と同様、お金も人がつくったもの。経済システムを神様のように奉っていないで、危険な事故が起こらないか点検して、必要があれば変える姿勢が必要なんだろうけど、もし、そのシステムが自分にとって有利だったら、それをとめることがなかなかできないのが人間なのかもとふと思いました。

ところで、原発の核廃棄物処分場について、国内ではなくモンゴルで、というニュースが新聞に載ったことあったけどその後どうなったのかな?とググってみたところ、やはり構想としてはあるようで、先月の16日にはウランバートルの日本大使館前で脱原発デモがあったそう。モンゴルのウラン埋蔵量は世界一だとか。

ああ、ウランは危険だとわかってても、お金になると知ったら、採掘して売って、で、発電後の廃棄物も受け入れましょう、っていうのが「経済的」ってことになるのかな?そうだとしたら、そんな経済は、やっぱりどこか、変だと思う…。


関連リンク
モンゴル 日本大使館にデモ 「核廃棄物 持ち込むな」| 東京新聞

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マーク・ボイル『ぼくはお金を使わずに生きることにした』
原子力発電所のこと。

2012年7月28日土曜日

坂本龍一+編纂チーム編『NO NUKES 2012 ぼくらの未来ガイドブック』

今月、7日と8日に行われた「脱原発」音楽フェスティバル、"NO NUKES 2012"にともなって発売された本。音楽フェスのガイドブックや記念本というより、あのイベントを行った人たちが、「脱原発」に関して最低限伝えたかったことがまとめて読めるという感じの内容です。できるなら眼を背けたいような事柄もたくさん、というかそれがほとんどですが、こんなに最悪の事態なんだと、逆に腹がすわるようなところも。

Part1では原発をめぐる最新の状況(小出裕章)をはじめ、エネルギーシフトの可能性(飯田哲也)、健康問題(鎌仲ひとみ、肥田舜太郎)、ふくしまに暮らすこと(吉田麻里香)、国際的視点(村田光平)、お金と経済と幸せ(吉原毅)、アート(奈良美智、ヤノベケンジ)が問題の深刻さ、重さを伝えます。Part2では、音楽フェスに参加したアーティストたちの思いや、最近の「脱原発」デモについての対談が綴られています。で、ラストはカイ・ファイファーによるスペシャル・コミック「放射能は永遠に」。

正直、昨夜読み終わってからは眠れませんでした。なんで日本は世界は人類はこんなことになっちゃってるんだろう、と。

そしてものすごくしみじみと、わたしがおばあちゃんになった頃、日本が「脱原発」までなんとかたどりついたとしても、放射能の問題は消えないんだなあと、わたしの命がつきて肉体が大地の一部になっても、放射性物質は地球をめぐり、生き物たちに影響してるんだろうなあ、と遠い未来を想いました。

昨日、義理の叔父がガンで亡くなったせいか、人の命のはかなさが身にしみます。生きているうちに、わたしにできることって何だろう?




フェスの忌野清志郎スペシャルセッションで、この曲だけは清志郎が歌ってる動画がステージに流れました。



同じ曲の割烹着〜ずバージョン。あー、音楽っていいなあ。


関連リンク
NO NUKES 2012
USTREAM: NO NUKES 2012 : 双葉町町長と船橋監督のアーカイブを公開中。

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原子力発電所のこと。
再生可能エネルギーとのおつきあい。

2012年7月27日金曜日

ドイツ、脱原発宣言の背景。



東日本大震災の後まもなく、ドイツが脱原発宣言をしたのは記憶に新しいところ。上の動画は、映画『第4の革命』の監督、カール・A・フェヒナー氏に、ドイツのエネルギー事情についてインタビューしたものです。

エネルギーというと、技術的なこと、経済的なことが気になるのは、たぶんわたしだけではないと思いますが、まず大事なのは人々の気持ちと行動であって、技術的、経済的変化はそれに付随して起こるんだろうな、と感じさせてくれるお話でした。

特に心に残ったのは、ドイツの脱原発宣言の背景には、ドイツ人の自尊心、自立心の高まりについての歴史があったという説明(インタビューのはじめの部分)。もともと、ドイツは「デモ」をして国に反発するお国柄ではなかったそうですが、70年代には民主主義が若者を中心に広まり、80年代には、アメリカがドイツからモスクワへ核ミサイルを発射しようとしたのを「デモ」で止めたそう。

90年代には、グリーンムーブメントが起こり、エコロジー意識が高まるなか、1990年には電力買い取り法、2000年には再生可能エネルギー法と、脱原発&エネルギーシフトの土台ともいえる法律が定められます。その結果、2001年には全体の2.9%だった再生可能エネルギーによる発電が、現在ではなんと20%と、当初の予想をはるかに超える結果に。

ドイツ脱原発宣言の背景にあるのは、国民たちが自分の気持ちを表現し、政治がそれを受け止める、そんな信頼関係というか、コミュニティの一員であることの自覚のようなものなのかもしれません。

関連リンク
関口知宏ホームページ
エネルギー問題関連のコンテンツがたくさんあります。

第4の革命 - エネルギー・デモクラシー|100%再生可能エネルギーシフトは可能!ドイツを変えたドキュメンタリー映画

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再生可能エネルギーとのおつきあい。

2012年7月26日木曜日

アスファルト・コンクリートと瓦の蓄熱。

自転車や車などで移動する際に、あると便利なのがアスファルト・コンクリートで舗装された道。石がごろごろしてるような道に比べれば安定して走れるし、雨の後、水たまりでタイヤがどろどろになることもありません

うちの近所に限っていうなら、庭のほとんどをアスファルト・コンクリートで舗装してある家が少なくありません。車の駐車スペースとして使いやすいし、雑草が生えにくい、冬は雪が溶けやすいという利点があるせいでしょうか。そして、家と家の間にある道路は公道も私道もコンクリート舗装。「土」が見えてるのはプランター表面と畑と田んぼ、土手の一部、山道、といったところです。昔ながらの田舎でさえ相当にコンクリートな地面が増えてますから、都市部では土の表面を見るのって貴重なのかも、と想像したりします

以前はあまり気にしてなかったのですが、猫を飼い始めてからというもの、特に夏場は近所の道の表面温度が気になるようになりました。晴れた日の日中はもちろん、夕方、日が暮れてからも、アスファルト表面はほかほかと熱を放っています。散歩に行きたがって一緒に出かけてみた猫も、あまりの暑さに立ち止まり、涼しい場所を求めてはそこで長時間の休憩…。となると、散歩がなかなか終わらないので、夏の夕方のわたしは、アスファルトに手を置いて温度をたしかめては散歩時間を入念に見極めるようにしています。

それにしても、夏の夕方、アスファルトからたちのぼる熱気を感じつつ家々のエアコンのファンが音をたててこれまた熱気を放っているのをみると、至極単純に「これじゃ地球が温暖化しても仕方ないね」と思ってしまうのですが、数字にしてみると、このアスファルトの蓄熱ってたとえば土に比べてどれくらいなんだろう?とネットで調べてみました。

で、見つけたのが、滋賀県立大学大気水圏研究室の卒業論文「人工陸面の熱物性と大気加熱への影響」の要約。平成6年度卒業生、速水峰彦という人による研究です。ものすごくざっくり言うとアスファルトやコンクリートと瓦の表面温度や蓄熱特性を土壌と比較して、大気への影響を予測したもののようで、結論から言うと、
コンクリートやアスファルトは土壌よりも熱伝導率が2倍で、熱容量も3倍近くも大きく、蓄熱性が高いことがわかった。
コンクリート・アスファルトは日中に多くの熱を物質内部へと蓄え、夜間に放出していると考えられる。その結果大気の加熱効果はコンクリート・アスファルトで最大2℃/時間程度はあると試算された。
とのこと。つまりは、アスファルト・コンクリート(コンクリート・アスファルト)は土壌よりも蓄熱性が高く、昼に蓄えた熱を、夜放出している(と考えられる)、という結果で、わたしたちの一般的な感覚にかなり近いのではないでしょうか。

この研究でちょっと面白いのは、「瓦」を比較対象にしていることで、これについては、
瓦の熱伝導率・熱容量は土壌とほとんど変わらなかった。
瓦による蓄熱効果は小さく、大気加熱の効果はほとんどない。
となってます。蓄熱についてみると、瓦は土壌とほとんど変わらない。瓦=土と、強引に単純化すると、瓦って縦穴式住居とか、人間が土の中に住んでた頃の名残なのかしらん、なんて思えたり、瓦って一種の断熱材的な役割があるのかあと、しみじみしたり。飛躍してるとは思いますが、人が住まいに求める熱特性は昔から変わらないのかしら、なんて思えたりもします。

ところで、この「蓄熱」って観点から見た時、太陽光パネル(太陽電池)はどうなんでしょう?日本の屋根や土の上にどんどん太陽光パネルが増えていきそうな今日この頃、住まいや環境への影響がすこし気になってます。

関連リンク
人工陸面の熱物性と大気加熱への影響
速水峰彦(滋賀県立大学大気水圏研究室 平成6年度卒業論文)

2012年7月23日月曜日

その後の睡蓮鉢。

今年5月からはじめた睡蓮鉢は現在、左の写真のようにとても元気です。といってもここまで来るのに、数々の出来事がありました。

まず、当初入れてた睡蓮はまもなく枯れてしまったため、新しい鉢へと交換。それも「たぶん今年は花は咲かないでしょう」と店員さんに説明されながらも、その鉢を選んで買って来てしまった父…。店員さんの予想どおり、一応ついてた花芽はやがて元気をなくし、とれてしまいました。

が、とにかく鉢についてた育て方の説明どおり、根元に太陽の光があたるようにしていたのがよかったのか、次々に葉っぱが増え、いまではもう睡蓮鉢全体を覆いそうな勢い。特に今月、暑くなってきてから勢いがあるような気がします。睡蓮て暑いのが好きなのかも。

一方の金魚たちはというと、まず、先日の記事で書いた水中の酸素問題については、水草(特にマツモ)が生い茂るにつれ解決したようで、水面でやたらと口をパクパクさせることはなくなりました。つまり、金魚のブクブク(エアレーションポンプ)は用意したものの、出番がなくなってしまいました。「太陽光で発電して→エネループに充電して→その電気でエアレーションポンプを動かす」システムにかなり自己満足してましたけど、それをよりスマートにやってのけるのが水草なわけで。それとそう、金魚の数を当初の8匹の半分にしたのもよかったのかもしれません

とまあ、睡蓮は元気になり、金魚も落ち着いてきて、なんとなく気抜けしてたところ、季節は夏本番、睡蓮鉢の水温も30度を超える日が増えてきました。手元の金魚関連本には、水温は30度までとあるので、じょうろを使っての水換えをまめにしたり、睡蓮鉢に傘をかぶせてみたりして、なんとか冷やそうと努力。しかし気温とともに水温は上がり続け、昼間にはもう35度近くになることも。金魚は一見元気そうなのですが、睡蓮の根っこ付近のとても浅くて目立つところに身を置くことが増え、これは何のサインだろう、と思っていた矢先、悲劇が。金魚が一匹、行方不明になりました。涙

うちの庭には蛇もいますし、鳥もたくさん来ます。最近では、ムジナも出没してたし、そうした動物たちに食べられちゃった可能性は大。夜は網をかけとくとか、できることはあったのになあと悔やみつつ、今は水温問題もあるので、睡蓮鉢を移動させることにしました。涼しくて、より人の気配がある場所へ。

陽が高くなって束の間だけ光が差し込むこの場所だと、睡蓮鉢そのものというか、陶器の部分には日光はあたらず、その代わり床下からの涼しい空気が陶器を冷やし続けてくれます。今のところ水温は30度を超えることはなく、金魚たちはいい感じに隠れててくれて、一安心。

しかも。睡蓮は新しいつぼみをつけました。咲くかな、咲くといいな。


関連記事
金魚用のブクブク。

2012年7月14日土曜日

再生可能エネルギーとのおつきあい。


先日、『第4の革命 エネルギー・デモクラシー』という映画を観ました。世界では、農耕革命、産業革命、IT革命に続く、第4の革命、エネルギー革命がいま起こりつつあるよ、というドキュメンタリー映画で、いわゆる再生可能エネルギー(太陽や風や水、バイオガスなどを資源とする)が既に各地で導入されており、さらなる普及が加速していくことを感じさせる内容でした。

わたしは世界の原発が一刻も早く停止して、安全な廃炉、そして核燃料廃棄物の管理技術が確立されればいいなと思っています。また地球温暖化問題と、いつかは訪れるとされる燃料資源の枯渇を思うと、火力発電もあんまりやらないほうがよさそうだなあ、と感じています。ということは、これからは再生可能エネルギーだっ!と一時は意気込んでいたのですが、昨年の東日本大震災後、自分なりにめいっぱい節電してみて思ったのは、「これまでの生活って電気に頼り過ぎだったのかもしれない」ということでした。再生可能エネルギーで発電するのもいいけど、そもそも各個人が電気を大切に使う、そうした節電力が集まればちょっとした発電所なみのエネルギーとなる。このことは昨年の夏、多くの日本人が体感したのでは、と思います。

さらに、「電気」について調べてみると、大規模な発電所で電気を作って遠くまで送る、現在の日本の発電&送電方式にはさまざまな無駄があります。例えば、電線にだって抵抗はありますから、遠くへ送ろうとすればするほど電気は少なくなってしまいます。また、交流で電気を送るのは「遠くまで電気を運ぶ」という点では直流より効率がよいのですが、最近のわたしたちの生活にはパソコンやスマートフォン、携帯電話など、直流を使用する電化製品もあって、そうした製品を使う場合は電線からの交流の電気を直流に変換する必要があり、この変換の際にまた電気が少なくなってしまいます。太陽光パネルや風力発電機には小型のものもありますから、各家庭や地域に設置して用途に応じて使い分けるとこうした電気のロスが減ることに。また、そうして電気をつくってる現場をみれば、電気を自然と大事に使うようになり、節電力がアップするかもしれません。

ところで、再生可能エネルギーには天候に左右されるという弱点があります。そこで重要になってくるのが「電池」。 映画『第4の革命』には電池の仕組みについてある女性が熱心に説明する場面が登場しますが、そのシーンを観ながらわたしは、「電池を上手に使わないと、再生可能エネルギーもエネルギーのゴミをたくさんだすことになるんじゃないかなあ?」と思っていました。しかし、映画サイトで調べてみると、このマリア・スカイラス=カザコスという女性は『バナジウムレドックスフロー電池』という電池の開発者で、なんとこの電池は、安全に(発火・爆発が起こらない)長期間(事実上30年!)能力を維持できる上に、大規模な蓄電(メガワット級が期待されている)が可能。さらにはバッテリー液が完全にリサイクルできるという、それ自体が持続可能、再生可能な性質を持った夢のような電池だそうです。

また、この映画での電気自動車は「動く電池」としても描かれています。電気自動車のバッテリー部が規格化され、どこでも充電&放電が可能になれば、再生可能エネルギーの安定供給に一役かう存在になるかもしれません。例えば、街で買い物して帰ろうかという時に、車のバッテリーが余ってると気づいたら、ある程度放電して他の人に分けてあげる、逆に、バッテリーが少なくなってることに気づいたら、近くの給電所で電気を分けてもらう。コンビニやスーパーマーケットの駐車場、街のコインパーキングなど、さまざまな場所が電気をシェアするための場所になりえます。

とまあ、この映画をみて、いよいよ再生可能エネルギーが身近になるなあ、で、ますますつきあい方を考えといたほうがいいなあ、という気持ちを強くしていた矢先、いよいよ日本でも電力小売りが全面自由化され、発電事業と送電事業が分離する、というニュースが!どうやらわたしたちは今まさに、第4の革命のさなかにいるようです。


現在日本各地で上映中。DVDも発売されています。

関連ニュース
発送電分離、新規参入促す 広域融通も容易に : 日本経済新聞
発送電分離の方針決定、家庭向け自由化も 経産省専門委 : 朝日新聞デジタル
電力改革方針が決まる、小売自由化・発送電分離 : YOMIURI ONLINE

2012年7月10日火曜日

原子力発電所のこと。

もうずいぶん昔の話になりますが、高校時代は物理の授業がかなり好きで、なかでも眼に見えない現象の存在を証明するタイプの実験には素直に感動してました。

そのなかの一つが放射線で、物理の先生が箱のような装置(ガイガーカウンターの一種だったのかな?)で音として放射線の存在を感じさせてくれたときは、ドキドキしました。小さな原子の世界で起こってる現象をこうしてひろえるなんてすごいなあと。

理数系の学科にいたこともあって、当時は核分裂やら放射性同位体のことはもちろん、E=mc2の公式でエネルギーと質量の関係については相当に計算して実感してたはずなのですが、「原子力爆弾はとんでもなく破壊力があるなあ、こわいなあ」と遠い世界のように思うだけでした。

今思うと、当時のわたしが原子力発電所のことをリアルに想像できてなかったなんて、悪い冗談のようです。時はチェルノブイリの原発事故が起きて間もない頃でしたが、ソ連は遠くにある国で、そこから出た放射性物質が地球をめぐってるなんて思いもしませんでした。さらには、わたしが通っていた高校から30kmも離れていない場所で原子力発電所の建設がはじまっていたのですが、そのことについてなにか考えた記憶は全くありません。

原発についてほとんど本能的ともいえる危機感を感じたのは、2007年に能登半島地震が起こってからのこと。が、単に、別の発電法について調べたり実践するのみで、事故が起こったらどうなるか、実際何がどう危険なのかは、調べてませんでした。原発自体や放射性物質の人体への影響について調べ始めたのは昨年の震災後のことで、調べれば調べるほど衝撃的な事実が明らかに。調べものは好きなほうですが、知れば知るほどあんなにつらくなる調べものは初めてで、これ以上は精神衛生上悪い、と、半年ほどでやめてしまいました。

でも。つい先日の大飯原発の再稼働については、能登半島地震の時と同じくらいの危機感を感じました。日本の国民なのに、福井県のすぐ隣県に住んでる住民なのに、そんなわたしの意見をまったく無視してコトが進められてしまったから。そしてなにより、福島の原発事故の惨状を知らないはずはない政治家たちが再稼働に賛成した気持ちや理屈がわからないから…。

というわけで、多少つらくても調べものを再開しようと思います。賛成派の人たちは何を感じ、考えているのか知りたいです。どうしても原発を運転しなければならない理由って何?

ところで、政府は原発政策の今後について、意見を募集してます。わたしのようなもどかしさを抱えてる方はぜひ意見を送ってみてください。以下のサイトから簡単に送信できます。意見募集期間は7/3まで。

話そう"エネルギーと環境のみらい"

追記(7/14) 意見募集期間は8/12までに延長されました。

2012年7月4日水曜日

ベン・ウィルソン『僕たちのバイシクル・ロード』

自転車というのはほんと、スバラシイ道具。徒歩よりだんぜん速く走れるのに、「自力で」移動した感覚が持てるわけで…。

そんな、「自転車」での世界一周旅行映画、きっと面白いだろうと、iTunesでダウンロード開始。で、よくよく映画の説明を読んでみると、「ドキュメンタリー映画」だということがわかり、「どうやって撮ったの??」「撮りながら世界一周!?」と驚きつつ観てみると、撮影機材を自転車にのせて運びつつ、自分たちを撮りつつ、の世界一周でした。時間にして、約3年の旅。単にラッキーともいえるかもしれませんが、こんな無茶でもなんとかなるなんて、世界はそんなに悪くないんじゃないかとも思ったり。いやあ、無事帰れてよかったです、ほんと(以下、若干ネタバレします )。

そもそもドキュメンタリー映画って基本的につまらないことが多いかと思いますが、この映画は、自分たちで撮ったにしては、よく編集されてるなあと思いました。それと、カメラが自転車についてることで、主人公たちと一緒に進んでる感覚が持てるシーンが多々。まさに、自転車からみえる景色がたのしめる映画という点ではかなり貴重かも。

といっても、次々と変わる景色に、やってくるトラブルに、ドキドキワクワクな映画体験ではあるのですが、よい子はマネしないでね、とも言いたくなる旅です。例えば、中国を走ってる時なんて、道に迷ったまま山に自転車で登るだとか、現地の人に地名すらしっかりきけない状態で走り続ける彼ら。気づけば、大気汚染が深刻な地域に突入して顔が泥だらけに(というか、相当、有害物質を吸い込んでるはず…)。

さらには、転倒して意識不明に。頭を縫ったり、髄膜炎になって現地で寝込んだり。自転車旅行は身体が資本ですから、そこで挫折してもおかしくなかったのに、途中で帰らなかったことが素晴らしくも呆れました。さらにさらには、所持金はユーラシア大陸を横断した時点でなくなったにもかかわらず、オーストラリアへ行こうとして「船のヒッチハイク」を試みる主人公たち。見事成功して、それ以降、大陸間の移動は全て同じ方法採用。んー、今の時代、飛行機を使わないこともすごいですが、徹底してお金も使わないこの姿勢にはびっくりです。お金に頼らない生活という意味ではこの主人公たち『ぼくはお金を使わずに生きることにした』の主人公といい勝負かも。

それにしてもほんと、観ると自転車で走り出したくなるような映画です。

関連リンク
映画『僕たちのバイシクル・ロード 〜7大陸900日〜』公式サイト

2012年6月21日木曜日

マーク・ボイル『ぼくはお金を使わずに生きることにした』

震災の影響もあってか、近頃は「片づけ」や「手放し」が大流行。経済や気候が極端な状態になって生活が崩壊する事態も世界中に発生してますし、人とモノの本質的な関係が問い直されてる時代なのかな、とも思います。

このブログも「ものとのつきあい方をていねいに考えてみよう」と思ってはじめたものですが、「もの」のなかに「お金」を入れることを忘れてたことを気づかせてくれたのが、マーク・ボイル著『ぼくはお金を使わずに生きることにした』というこの本。そう、お金ってある程度の人数の人が共通認識として価値を認めてるからいろいろなモノやサービスと交換可能なだけで、そうじゃなかったらただの模様のある紙、あるいは金属でしかありません。

そもそもは人々が助け合って生活していく上での便利な道具であるはずのお金ですが、あまりにも便利なゆえに現代人、特に資本主義先進国の人々はそれに依存しすぎているかも。わたし自身、なにかが必要になったとき、たとえば、100km先へ移動したいとなったら、まずお金が要るなあと考えがち。お金があれば電車やバス、タクシーなどが使えるし、誰かの車に乗せてもらうにしてもガソリン代を負担することが可能。というわけで、100km先へ移動するために、1)お金を入手する、2)お金を使って交通手段を確保する、というステップがすぐ頭に浮かんでしまうわけですが、「移動する」ことそのものを考えてみると、わたしは歩けるし、自転車にも乗れるので、特にお金を使わずに、という方法もあります。あるいは、たまたまわたしと同じ地点へ向かう人を見つけてとにかく乗せてもらう。ヒッチハイクすれば100kmの移動なんて簡単なことかも。

お金を使って移動する場合はたいてい、移動そのものは比較的短時間ですみ、心身もあまり使わないですみます。ただし、お金を入手するために、ある程度の労働や交換が必要になるかもしれません。一方、お金を使わず自力でなんとかする場合、たとえば、自転車での100kmの移動は苦行ともいえる心身の負担をともなうことでしょう。そして途中で自転車がパンクなど、故障するリスクもあります。そして、お金を使わず他の人に頼む場合というと、乗せてくれる人を探す、という労力と時間が必要になりますが、乗せてもらってしまえば身体は疲れません。また相手によっては会話がはずんでたのしい時間を過ごせるかも。好意を受け取り、感謝する、という心の交流が生まれる可能性もあります

ある晩、環境破壊など、世界のさまざまな問題について親友と話あっていた著者は、複数の問題の共通原因に「消費者と消費される物との間の断絶」があるのではないか、と考えます。上の移動の例でいえば、100kmのサイクリングを体験すれば、その同じ距離を車や電車で移動する際のありがたみが身にしみて、乗り物を運転している人や、乗り物自体、そして乗り物を動かしているエネルギーのことにまで考えがおよぶかもしれません。ちなみに、著者がまず挙げている例は食べ物。食べ物を自分で育てなくてはならなかったら、その三分の一を無駄にするなんてこと(イギリスでは実際に起きているそう)はしないでしょう。

その他もろもろ、お金のもつ負の部分に気づいた著者は、一年のカネなし生活実験を決意し実行。この本にはその一年の体験が描かれています。いわば、お金を「片づけて」「手放して」みたわけで、なんとも大胆ですが、この著者はすでに動物性食品を断っている、いわゆるビーガンで、お金がなくてもそれを貫いているのはもう冒険家のよう。さらに、クリスマスにはイギリス本土から故郷のアイルランドへ帰って家族と一緒に過ごす、という快挙もカネなしでなしとげてます。

お金を使わない生活というと、移動の例でいえばひたすら自転車をひとりでこぐ孤独なイメージをわたしは持っていたのですが、著者の場合はそうではなく、適度にヒッチハイク的な方法をとりいれて、かなり社交的な生活を実現しています。また、カネなし生活がさまざまなメディアに取り上げられたため、原稿書きやインタビュー、講演など、お金はもらわないものの、かなり社会ともかかわって相当に働いてるのが特徴的。

食べ物については、野外採集と栽培、スーパーなど街で捨てられている食材を収集、という方法を組み合わせ、バランスのよい食事を用意。薪割りからストーブづくりまで自分でやるのですから、相当に忙しい。そう、著者の場合、カネなし生活は、時間との戦いでもありました。

自給自足的方法、托鉢的方法、現代のホームレス的方法、古代の人の方法、ネットを駆使した最新のエコ団体的方法、ととにかくこの人って柔軟に対処法を見つけてるなあ、というのがこの本全体の印象。人を信じているがゆえにお金を使わない一年を有意義に、飢え死にすることなく過ごせたんだろうなあと思います。

この本を読む限り、カネなし生活は大変な冒険だけどとても魅力的。自転車での移動や、食物の栽培&採集、ロケットストーブ(燃焼効率がよく煙が少ない)の製作、ソーラーパネルでのエネルギー自給など、まねできそうなことは生活にとりいれてみようかな、そしたら世界がちょっと違ってみえるかも?とわくわくする読書でした。

ちなみにこの本は図書館から借りたので、お近くの人はぜひ借りて読んでみてください。

2012年6月16日土曜日

iphoneにバンパーを。

iphoneを入手したのは約半年前のこと。みるからに「繊細でもろそうな」ボディに不安を覚え、「落とすとこわれますか?」と店員さんにきいてみると、最短では買ってから一日もしないうちに落として修理に出すことになった人がいるとの話。iphoneカバーというものがやたらたくさん売られているのはこういうわけか、と納得しつつ、とにかくまずひとつ、とそのショップに置いてあったiphoneカバーの中からとにかくひとつ選ぶことにしました。側面と背面にはめこむようなタイプがカラフルで一般的なようでしたが、カバーする面積は大きいいいほうがいいかも、とマグネットで閉じられる手帳カバーのようなタイプをセレクト。

冬の間は結構快適に使えてたこのカバーでしたが、陽の光が明るくなるにつれ、黒という色が重く感じられるようになりました。また、iphone使用時にはマグネットをはずして前面をいちいち開けなくてはいけないのが面倒だし、写真を撮る時などは、この前面部分がぶらんとじゃまになるような。

さらには、気温が上がるにつれ、iphone本体が熱をおびることがあり、夏本番にはこのカバー、不向きかも、と思い始めた矢先、ついにわたしはiphoneを落としました。カバー前面をひらいた状態で。そう、このカバーの欠点は、カバー前面を開くと、iphoneが持ちにくいことでもあるんだ、と気づいたときにはもう時すでに遅く、iphone前面の角が落下の衝撃で欠けました。

が、幸いにして、iphone本体というか中身には被害はおよばなかったもよう。でももう、カバーは変え時だな、と次のカバーを物色開始。

それにしても、世にはほんとうにたくさんのiphoneカバーなるものが存在します。

例えば上の画像のように、全体をカバーしつつ、縦に開くタイプ。これだと、カバー前面をひらいてるときも、本体をしっかりグリップできそう。

落としてしまうことを前提に選ぶならこんなケース(バンパー)も。微妙な角度がついているので、机の上にiphoneを置くのも便利そう。また、どんな風に落としても、ケースがクッションになってくれるので、かなり安心です。

落とした時のことを考えるのも大事だけど、そもそもわたしの場合、カメラとして使っているといっても過言ではないiphone。トイなレンズをつけてみるのも魅力的…。

iphoneの背面はいっそのことカメラにしちゃって、三脚穴もついてるし、レンズを付け替えたりもできるし、カメラを首から下げるみたいにこのカバーをしたiphoneを首から下げたらとにかく安心かも…。

なんて、相当悩みましたが、ここでふと基本にもどって思うに「iphoneが単独ではもろい製品だったら、Appleが何かちょうどいいカバーを用意しててもおかしくないよね!?」というわけで、AppleStoreをチェック。そして純正バンパーなるものを発見。これが一番シンプルで最低限の安心を与えてくれるはず…。


そんなわけで今はピンクのバンパーを愛用中(って、まだ二日目ですが)。ちょうど、前回の落下で欠けてしまったところ(前面の角)をしっかりカバーしてくれるデザインにはかなりの安心感が。以前より相当に持ちやすくなったので、落とす確率は低くなったんじゃないかと思います。ただし、バッグなどに入れて持ち運ぶ場合は何かに包むなどして衝撃をやわらげる工夫をしたほうがいいかも。

2012年5月21日月曜日

金魚用のブクブク。

先日、植物好きの父がさらっと「睡蓮かって来たよ。」というので、早速みてみました。いつかは屋外金魚飼育用に使いたい、と思っていた壷に植木鉢をいれ、そこに水をそそいでそれらしく設置してあります。

でもこのままだと、ボウフラ養成所みたいになりそう。メダカ、いや、うちには金魚がいるんだし、金魚、思い切っていれてみよう!と、我が家の金魚のうち、最年少のおちび組(といっても、2007年生まれ)8匹を泳がせてみることにしました。

ちょうど、金魚用水槽が小さくなってきてたところだったので、そこよりも広いこの壷で泳げるのが嬉しいのか、やたら活発な金魚たち。が、しばらくすると、やたら上をむいてバクバクしはじめました。

これは、エサの催促(水が汚れないように少なめにあげてた)もしくは酸素不足?と、慌ててホテイアオイをすこし足し、こまめに水換え。水を注ぐ時はじょうろで空気がよく交じるように…、なんてすこし工夫してみましたが、それでもぱくぱく。


そこで。携帯用(乾電池で動く)エアレーションポンプを使い、すこし空気を補給することに。ときどきでいいだろうと、バッテリーは太陽光パネルで充電した単三形エネループを単一形に変換するアダプタにいれて、一日数回。

この、金魚用ぶくぶく、をしたときは、口ぱくぱくが減ったような気もしましたが、数時間充電しただけの電池では5分とか10分とかあっというまにエアレーション終了。このポンプはもともと、停電時に使うことを前提に、複数の水槽へ空気を送るために用意したものとあって、この壷ひとつにはパワーが強すぎるよう。

そんなわけでもうすこしパワーが小さく電池のもちもいいエアレーションポンプを用意することにしました。あわせて水草ももうすこし増やせば、酸素不足、なんとか解決するかな。



2012年5月15日火曜日

里山里海メイクって。

日本には、色の白いは七難かくす、なんてことわざもあるとおり、たぶん一般的には「肌は白ければ白いほどよい。あるいは、無難。」という考え方がありそうな気がします。

健康面からしても、紫外線A波(比較的長い波)はコラーゲン、エラスチンなど、皮膚の繊維質をじわじわ破壊しますし、紫外線B波(中程度の波)はエネルギーが強いため、屋外で長時間浴びると、肌表面がやけどに近い症状を示すことも。さらに、皮膚がん発生のリスクはゼロではありません。

一方で、紫外線を浴びることにはプラス面もあって、ビタミンDの合成、殺菌消毒、血行や新陳代謝の促進、皮膚抵抗力の昂進(こうしん)といった働きも。最近では、窓用のUVカットシートなども販売されていますが、あまり徹底して紫外線を避けると、健康面での問題が生じるかもしれません。

と、前置きが長くなりましたが、ここ数年気になっているのが、田舎的メイクというか、「里山里海メイク」があるとしたらどんなだろう?というもの。たとえば田舎のおじいちゃんには、しっかり日焼けしてなんだか健康そうでたのもしい感じの人がいたりしますが、おばあちゃんたちとなると、畑仕事のときはしっかりと帽子(+側面背面ともに布で日差しをガード)をかぶってそもそも顔が見えません。畑は仕事場で、それ以外の場所で色の白さをアピールするのかしら、とも思いますが、なんだかもったいないような気も。

女性誌ではヴァカンスメイクというか、山へ海辺へ、お休みの日に出かける時のメイクなんてものが紹介されてたりしますが、普段から山や海の近くに住んでる場合、どんなメイクがぴったりくるのでしょう。ということをつらつらと考えながら、化粧品カウンターで相談してみたところ、店員さんは眼をぱちくりさせつつ、メイクを試みてくださいました。彼女がピックアップしたキーワードは「ナチュラル」「アウトドア」あたりで、いつものわたしよりも、こんがりとした肌色の、目力強めで、リップがつやつや、な出来上がり。どうも、かぎりなく薄いメイクなわたしを見て、あれもこれも塗りたくなったに違いありません。

街の中ではちょうどよいような気がしたそのメイクでしたが、電車に乗って、だんだんと「里山里海」地帯に近づくにつれ、自分の中で違和感が。そう、普段はBBクリームすら濃い、「なんか塗ってる!!」感じが耐えられないわたし。こんなにあれこれ塗るのはそもそも無理なのかも。

というわけで、この夏はBBクリームもつかうのは最小限にして、無色の日焼け止めクリームに頼ろうかと思ってます。そして、ポイントメイク的にブロンザー。七難も隠さずにいるのが、もしかすると里山里海風?

参考
紫外線 - Wikipedia

2012年5月14日月曜日

猫の散歩と人間のあしもと。

うちの猫は屋内では自由行動、屋外では散歩ひもをつけて人間と一緒にお散歩、のスタイルで生活しています。

「猫の散歩」というのは、すくなくともうちの猫が連れてってくれる範囲内では、かなり短距離、しかもゆっくり。猫にとっては普通ですが、人間がこれをやるとかなりアヤシイ。ので、ご近所の人に会ったらば、なるべくこちらから挨拶するようにしています。「猫の散歩ってなかなか進まないんです…」なんて言いつつ。

そんな、ごくごくご近所を歩く猫の散歩のときのわたしの服装は、部屋着よりは外出着だけど、ものすごく力のぬけた感じ。さらには、(ど近眼なのに)眼鏡もはずしちゃって、猫と一緒に聴覚、嗅覚で歩くようにしてます。

あしもとはといえば、いわゆるつっかけのときもあればスニーカーもあり。玄関に出てる、なにか履けるもの、ぐらいのテキトーさなのですが、「衣類片づけ祭り」の後、気づきました。猫の散歩は出不精なわたしにとって、かなり重要な外出イベント。距離は短くても、一日一回、多い時は数回は出かけて歩いています。

特にこれからの季節、外へ出るときにまず要るのはスニーカーかしらん、と思いはじめた頃、長年はいていたスニーカーの底がはずれました。よくみるとかかと部分もぼろぼろしてます。いくらリメイク好きとはいえ、履物は分野外、これはもう新しいのを買おう、と決心。

で、入手したのが、ベンシモンのグリーンのスニーカー。軽くてはきやすいので、たくさん歩けそう♪ですが、もちろん、猫の散歩だとなかなかすすみません。笑

2012年5月13日日曜日

ときめく布は語る。

繕いものは難しそう、失敗するとすごく貧乏な感じに見えてしまう…。以前はそんなイメージを持っていた記憶がありますが、『繕いノート』という手芸本を読んでからは「繕いものはアート!」とまで思えるようになり、積極的に挑戦してみるようになりました。

といっても、どの衣服でも繕いたくなるわけではなくて、そこまでして着続けたいのは、気持ちのいい布。こんまりさん的にいえば、「ときめく」布とでもいえる布で、穴があいても破れても、好きは好き。特に、洗ってくたっとやわらかくなったコットンのパジャマなんてもう、他のものにかえがたい魅力があります。

さらに。いくつかの服を繕ってみるうちに、だんだん自分の服の着方というか、服のどこに負担をかけやすいのかがつかめるようになってきました。たとえば、左右非対称な穴は姿勢のゆがみを語ってるのかも。ひざとヒップがへたりやすいのは、座ってゴロゴロする時間がやたら長いせいかも、という具合。

それにしても、ここ数年、特に洗濯機を斜めドラム式にしてから、服の傷み方がはげしいような…。片づけ祭りで洋服の数も減ったことだし、もっと布にやさしい洗濯を、と模索している今日この頃です。

2012年4月29日日曜日

A4ファイルもはいります。

先日の「衣類片づけ祭り」で残ったバッグたちはどれも長い付き合いのものばかり。その中でも、普段よく使うのは2つ。素材は異なりますが、共通するのはサイズで、「A4の本がはいる」というのがポイント。

小さいかわいいバッグだけもっての外出にはかなり憧れるのですが、わたしの場合、出かけると書店もしくは図書館に寄ってしまい、そこで本を入手。あるいは、喫茶店で本や雑誌を読むというのも好きなので、バッグに本を入れておくことも多く、そうすると最低A4サイズがはいると便利です。

他に好きな場所といったら、映画館や美術館で、そこにはたいてい、A4サイズのチラシが。映画館や美術館でそれらを選ぶ時間もかなり好きで、で、そうしたチラシを部屋に貼って飾るのも好きだったりするので、なるべく折りたくありません。というわけで、やっぱりA4が必要。

そんなA4バッグのうち、いちばん長く使ってるのは、革製のショルダーバッグ。実に20年以上の付き合いですが、ちっともくったりせず、傷んだ感じにもならないのが不思議。肩ひも部分と本体の接続部がしっかりしてることと、きっと力学的にものすごくバランスのいい位置にその接続部があって、力が分散してるのでは、なんて、思ってます。あと、そもそも素材の革ががっしりと厚いのもポイントかも。

そう、耐久性っていう面では、革は抜群に高性能なんだなあと、先日、数々のバッグを捨てつつ実感。ビニール、ナイロン、その他石油化学系の素材は変色したり、弱くなって破れたりと、見るも無惨に劣化。布類も、へたったり、汚れがとれなくなったりと、使えなくなったものがたくさんありました。

さて。上の写真のバッグは、「衣類片づけ祭り」後の新入りバッグ。今後数ヶ月、A4ファイルだけど、A4より大きいがっしりファイルを持ち運ぶことにしたのですが、これが入るバッグは持ってないしどうしよう、と思っていたときに書店でnest Robeというブランドのムック本のふろくのこのバッグを見つけ、一目惚れ。A4大きめファイルがはいるのはもちろんのこと、ワンショルダーなこと、素材がリネンなこと、が気に入りました。

リネン以外でもこうした、ずた袋的?なしっかりざっくりした風合いのバッグは大好きで、定期的に買ってる気がしますが、今回はムック本もついていて(本来は逆ですが。笑)お得感がありました。

でもこのバッグ、本当に大きいので、中身を入れすぎないように注意する必要あり。ほんと、たくさん入りますが、肩ひもが細いので、重さが肩にくいこみます。実際、先日は中身を入れすぎて、肩こりを通り越した肩の痛みを体験することに。涙

んー、すこしリメイクして、持ち手をつけたり、肩ひもを部分的に太くしたほうがいいかも。よし。

2012年4月27日金曜日

能登の色と光。

たしか数年前のことだったと思いますが、金沢のとあるお店(置いてあったのは、ざっくり言ってナチュラル系服飾雑貨)でリネンのクロップドパンツを買い物をしたとき、「あ、能登にお住まいですか。うち、能登のお客さんが多いんですよ。」と言われ、首をかしげたことがあります。

が、いま思えば、ナチュラルというか自然素材の服や雑貨はきっと、色や質感が自然の多い場所に似合うだろうし、わたしもそうだったように、ぱっとみて自分の生活の中にその服や雑貨がとけ込む様子が想像しやすかったのでは、と思います。

服は着る人との相性はもちろんですが、その人の住む場所の色や光との相性も大切。というか、人は自然と環境にも合う服を選ぶのかもしれません。例えば、わたしの場合、能登の他、京都にも長く住みましたが、能登に比べるとどの季節も明るく(晴れの日が多い)、特に冬はあまりにも明るくて眼がおかしくなりそうでした。能登の冬は暗く、そして雪が降るとあたりは真っ白になって、と、色が消える感じなのに対し、その他の季節は雨が多いといってもその日のうちに晴れたり曇ったりと光量がころころと変化。

なんてことを、いま、「衣類片づけ祭り」の余韻として考えてます。「修理&リメイク」山にはいった衣類は、今わたしが住んでる場所との、色と明るさ、素材感の相性の問題も抱えてるんだなあと。かつては気にならなかった繊維が、かつてはいいと思った色が、なんだかずれて感じられることに、スカートひとつ、布編みしてみて気づきました。つくったのは雑貨でしたが、どうも色と素材感が今の部屋とあわないのでボツ。

ところで服、特に日常的に家で着る服の場合、こうした土地環境との相性の他、ペットの毛色との相性も大切な気がします。例えば、猫を飼う前から着てる紺色のコットンセーターは、まさに今着たい服なのですが、猫毛(明るい茶色)が目立つことこの上ありません。とってもとっても猫毛がからみついて、ある意味一体化。もう外へは着ていけません( -e-)

そういえば、わたしも父も、家の中でふだんよく着る服の色がかなり猫毛の色に近くなってます。猫毛がつくと目立つ服は自然淘汰されてるような…。でも、これって衛生的には…。

2012年4月25日水曜日

ふろくにつられて。

「衣類片づけ祭り」は終わったようで終わらず。というのは、なんといっても「修理&リメイク」山があるからで、えいっとこれ全部捨てるか、修理&リメイクするか、と迷ったのち、わたしは後者を選びました。

こんまりさんがいう「ときめき」にも種類があるのか、この「修理&リメイク」山の衣類たちは、衣類としてときめいたというより、布、材料としてときめいた、という感じ。片づけ祭りをはじめた今は、とにもかくにも「捨てる」か「残すか」の判断をしてあとは保留しておけばいいのかもしれませんが、今着れるもの、身につけることが出来るものを作れるなら作りたいし、とにもかくにもやってみることに。

ところで、作業にあたっては、まずイメージが大切。と、図書館で手芸本を、書店でファッション雑誌をぱらぱら。昨日行った図書館ではこれといった本が見つかりませんでしたが、書店ではファッション雑誌をみるのがたのしくイメージが湧きそうな気がしたので、『madame FIGARO』と『リンネル』を入手することにしました。

で、レジに持っていってこの2冊を積み上げてみてしみじみ。とんでもなく厚いです。バッグにはいらないかもと思い、レジ袋にいれてもらって持ってみると、ずしりと重かったのはいうまでもありません。基本、徒歩での移動、しかも珍しくヒールのある靴をはいていたため、その重さはいっそう身体にこたえ、そうしてよれよれと歩いていたわたしは間違いなく、「ファッショナブル」から遠いところにあったはず ( -e-)

正直、『リンネル』は、ふろくのソーイングセット(写真)のかわいさと充実ぶりに惹かれて買っちゃったところがありましたけど、でもこんなに厚い雑誌にしなくてもいいのに…。この2冊にかぎらず、厚く、重くなってしまっている女性誌は多々。そしてふろくまでついて、巨大な物体となっているのは、女性誌業界のキビシサや迷いを反映しているかもしれませんが、これっておしゃれに持ち歩くのはムズカシイはず。買ってすぐに車にのせる、あるいは通販で買うことを前提にしてるのかしらん?

ともあれ、入手した『リンネル』最新号をよくよくながめてみると、スタイリストさんがリメイクを解説してるページ(p.40-41)もあり、かなり参考になりました。さらには、ミナ ペルホネンではリメイクデニムの受注&販売(毎月10本限定)を行っているという記事もあり(p.108)、ひざにパッチワークといってもこんなにかわいくできるの!?とその写真に釘付け。リメイクはセンス、ですね。すくなくとも、もうしばらくは遊んでみよう♪

2012年4月22日日曜日

祭りの準備。

今日は目が覚めてからずっと、昨日の「衣類片づけ祭り」のことを考えています。気づいたことも多々ありますが、反省点も多々。

特に反省するのは、家の中で自分の衣類がある場所をしっかり把握できていなかったこと。正直まだどこからか出て来る可能性もあります。というわけで、「祭り」の前にはそのカテゴリーのものがある可能性のある場所をしっかりチェックしなくては。つまりわたしの場合、「祭り」には家じゅうを歩き回っての準備が必要なよう。

実は昨日も準備をしなかったわけではなく、衣類をひろげることになる床に掃除機をかけたり、そもそも何故片づけをするのか、最終ゴールとなる理想の暮らしのイメージづくり、といったこともやってはみました。

が、きっぱり捨てられない、「修理もしくはリメイク」カテゴリーの山ができ、そのことについてちょっともやもやしてるのはイメージをもうちょっとはっきりさせる必要があるのかも…。

次は近いうちに、「本類片づけ祭り」を行う予定ですが、なるべくぬかりなく準備してみたいと思います( -e-)

2012年4月21日土曜日

衣類片づけ祭りをやってみた。

人生がときめく片づけの魔法』を胸に、今日は朝から「衣類片づけ祭り」に励んでみました。

衣類はそんなにたくさん持ってないはずだし、午前中であっさり終わるだろう、と軽い気分でのぞんだのですが、当初は思ってもみなかった展開に。こんまりさんおすすめの順序、トップス→ボトムス→かけるモノ→靴下→下着→バッグ→小物→イベントもの→靴、の順に捨てるものと残すものを全て分類した!と思ったその時、ふだん使ってないある部屋の押し入れが気になり、開けてみてみたところ、たくさんのバッグが出現しました。

しかもそれらのバッグの中には衣類が(ポケットからは指輪がでてきました)。バッグの下の箱にはさらにまた衣類が。その下には靴箱があって、その中には毛糸が…。と、ほこりっぽい押し入れの中から次々といろんなものが現れました。

収納した記憶がないものだけでなく、何故持ってるのかわからないものも。たとえば、さるぼぼがたくさん下がっている部屋飾りが出てきましたが、わたしにはそれに関する記憶が全くありません。母にきいてみても憶えはなく、でも喜んでもらってくれたところをみると、母が高山のお土産に買ってきてくれたものだったのかも…。

と、この辺りまでくると、「衣類の片づけ」のはずが、「押し入れの片づけ」になりそうだったので、とにかく衣類関係をとりだして分類。そもそもすっかり忘れていた時点で、「ときめかない」カテゴリーにいれてもよかったのですが、手にとってみるとまた着たいものもありました。ただし、長い間押し入れに入っていたものは多少ほこりっぽいので、洗濯に。

今のところ、捨てるものは燃えるものと燃えないものを分解してゴミ袋に、収納についてはクロゼットと洋服かけに、と捨てるものも残すものも一応場所がきまった状態になったのですが、その他その中間ともいえるグループ、「修理もしくはリメイク」という山もかなりの量があります。布編みでいろいろつくりたいし、ミシンも出てきたから服のリメイクにも挑戦したい。ポジティブに考えればちょうどいい材料が手にはいったともいえますが、今ひとつ片づいてない感も正直あり。

ともあれ、一応はこれにて「衣類の片づけ祭り」は終了。モノ別に捨てることの利点はまず、自分がどれだけそのカテゴリーのモノを持っているのか、を把握できることだなあと実感。買い足していくときに何を足せばいいかもよくわかって便利です。

2012年4月20日金曜日

『人生がときめく片づけの魔法』をiphoneで。

「断捨離」の記事を読んだ方が、近藤麻理恵こと、こんまりさんの、『人生がときめく片づけの魔法』をおすすめしてくださいました。以前から気になってた本だし、読んでみよう!と近隣の図書館3館での蔵書検索を試みたところ、どの図書館も所蔵しているけれど、現在は貸し出し中という人気ぶり。

だったら予約して待とうかな、とも思ったのですが、もしかして電子版もあるかもしれない、と調べてみると、ありました。iphoneで読める動画つきのアプリで、価格は古本で買うのと同じくらい。そういえばiphoneで本を読む、という体験はまだしてないし、いい機会かも、と早速ダウンロードして読み始めました。

iphoneでの読感は、というと動画があるのが便利なような邪魔なような。肝心の文章は、字体が好みじゃないし、余白が少なすぎるのも気持ちわるい。そもそもiphoneの画面は本としては小さすぎるんだろうな、あー失敗したかも…。と、紙の本が恋しくなりつつも、内容は面白いのでどんどん読むには読めて結局その日のうちに読了。いわゆる「本」じゃなくて、ワープロで打ってプリントアウトされた原稿を読んでいるような感じでした。

さて、著者のこんまりさんは、バラエティ番組で芸能人の部屋を見事に片づけた姿、その静かなたたずまいが心に残っていた人。この本では、子どもの頃から片づけに励みに励んで、試行錯誤を繰り返し、ついには極めた!でも、まだまだです!という語りがとても素直でユーモラス。そして達人な風情。

それにしても、
片づけは祭りであって、毎日するものではない
という主張には驚きました。「そんなの絶対無理!」と最初読んだときは思いましたが、読み進むにつれ、なるほど、という気持ちに。片づけとは、1)モノを捨て、2)収納場所を決める、ことだとシンプルに説明され、その前に理想の暮らしを考えイメージすることが大事なこと、「ときめき」という感覚を基準にモノを選べば、残るのは収納可能な量である、という経験則を説明されるとなんだか納得、自分にもできそうな気持ちに。

具体的に役に立ちそうだ、と思ったのは、場所別ではなく、モノ別に捨てること、そして捨てる順序を指南してくれていること。衣類→本類→書類→小物類→思い出品の順が捨てやすい、というのは、とてもとてもなるほどお、でした。

そして何よりこの本を読んでよかった、と思ったのは、「ときめかないけど、捨てられない」モノへの対処法。ひとつひとつ、その本当の役割を考えてあげること、が大事。役割を終えたものは手放したほうが、モノもうれしいはず、と、このあたりになると、ものすごくモノが擬人化されているのですが、ありがとうの言葉とともに捨てるという彼女の提案は、人間関係にも通じる素敵な別れのよう。「捨てるのはモノがかわいそう、もったいない」という声がきこえてきそうですが、ありがとうの言葉とともにそれがふっとんでいくような気がします。

こんまりさんは神社好きで、巫女の経験もある、ということが後半になってでてきますが、これを冒頭の「片づけは祭りである」と重ねたとき、わたしの脳裏に浮かんだのは、岡野玲子さんの漫画『陰陽師』の世界。片づけはまさに魔法、陰陽師に息をふきかけられた人形の紙が、陰陽師のために働くように、モノが作り手や使い手の想いを宿して働く。片づけは、一種、想いを宿す儀式のようなものかしらん、と、想像がふくらみました。そういうふうに捉えてみるのも、面白いかもしれません。

とまあ、かなりスピリチュアルにも受け取れる後半、だんだんこんまりさんってば、『ガラクタ捨てれば自分が見える―風水整理術入門』のカレン・キングストンさんのように、モノのエネルギー(?)というか、人からモノへの影響の痕跡を読み取ることができる人なのかも、と思われてくるのですが、その表現や感じ方がより日本人的で、わりとすんなりはいってきます。あえていうなら付喪神(つくもがみ)的ななにかを彼女は感じているのかも。

明日は新月。片付け祭りによさそうだし、こんまりさんのおすすめどおり、朝からやってみようかな。iphoneアプリでざくっと一読してしまいましたが、今後は「服のたたみ方」など、要所要所を読みながら、動画をみて実践することになりそうです。

2012年4月19日木曜日

「断捨離」

ものを「捨てる」のはなかなかに難しい作業。それはものが想いやストーリーを背負ってる存在だからだとしみじみして、すこしは「捨てる」ことが身に付いたのは、カレン・キングストンさんの『ガラクタ捨てれば未来がひらける』や『ガラクタ捨てれば自分が見える―風水整理術入門 』を読んでからのことでした。

やがて「断捨離」という言葉をよくきくようになりましたが、きっとカレン・キングストンさんの著書と同じようなことが書いてあるのだろうと想像して、ずっと読まずにきました。が、図書館の棚で『断捨離 私らしい生き方のすすめ 』という本をみかけたときは、やっぱり一度読んでみようかという気になり、借りて読んでみました。

「断捨離」の提唱者、やましたひでこ氏の監修のもと、心理療法家である川端のぶこ氏が書いたこの本には、これでもかというくらい細やかな、モノと人とのこころの関係が描かれていました。そして部屋が、さらには家が自分らしい心地よい空間になるための、モノの取捨選択法と心構えというか、「健全な」思考法のヒントや適用例が書いてあって、とても新鮮な読み心地。自分のものづきあいと、その背後にある思考を点検してみたら面白いかも、という気になりました。

同時に、この著者の一冊目の断捨離本もすぐに読んでみたくなり、Amazonで探してみたところ、中古本を43円で発見。断捨離本が「断捨離」されたのかも、とちょっとせつないような気持ちになりながら『モノを捨てればうまくいく 断捨離のすすめ』というこの本を購入して読んでみました。

この一冊目の断捨離本は、「断捨離」概論と、体験記がメイン。そしてこの本も監修は、クラターコンサルタントのやましたひでこ氏。
 断捨離を実践する、つまり「モノとの関係を問い直す」ことで、不思議といろいろなことが起こります。

 今の自分にとっての、不要・不適・不快を、意識した時、そこから新陳代謝がはじまります。不要、不適、不快を、意識して意図的に取り除いた時、「つまり」が解消されてなにもかもが流れを取り戻すのです。

 家の中には光と風が流れ込み、空気が変わります。
 片づかない悩みの種だったモノたちが味方へと変わり、執着は愛着となって、わずらわしい日常が「ごきげん」へと変化します。(p.9)
とのやましたひでこ氏の言葉どおり、川端のぶこ女氏の体験は、トンネルをぬけた後のような、すっきりキラキラしあわせ感がいっぱいでした。

いっぽう、そのすっきり感を読書で疑似体験したわたしはというと、自分のおなかの調子の悪さに敏感になり、食べ物や飲み物に気をつけるようになりました。そしてここ10年ほど、押し入れからだしっぱなしにしてあった大きなトランク(収納や簡易テーブルとして使っていた)と自分の関係を問い直し、それを押し入れに収納。

トランクを捨てたわけではないのですが、旅と自分の関係についてしばし向き合って、今現在なりの結論、つまりは「長期の海外滞在の予定なし」を確認することになり、なんだかものすごくすっきりしました。もちろん部屋もぐっとひろくなり、風通しも改善。掃除もしやすくなりました。

わたしが今住む家は築100年と、古い家。先祖代々な古いものとも一緒に暮らしていますが、新陳代謝できる部分はすこしずつすこしずつ快適に整えていけたらな、という以前からの想いを、この2冊の断捨離本はこまやかに支えてくれそうです。

2012年4月18日水曜日

本づきあい。

読みたくて次々と本を買い、でも実際は全部読むわけでもなくて、そのうちに本棚がいっぱいになって部屋にあふれだし、それでもまだ読書欲はとどまらず、図書館や本屋をぶらつき、やがて古本屋にたどりついて本を買い、本を売る。たぶん、わたしの人生の中で、「売る」体験がいちばん多いものは本。

たしか最初は大学生の頃、大学近くにたくさんあった古本屋に、読み終わった本をどっさりもっていきました。で、眼の前で古本屋のおやじさんが査定をするのですが、ベストセラー小説がまじっていると、「あー、これは売れないから」とはずされて、そんな流行の本ばかりだと、対応もあまりよろしくなく全部もって帰ることに…。一方で、その古本屋さん好みのジャンルというか、ちょっと珍しいような古めかしいような、たいていは学術系の本、そんな目玉商品(本)があると、がらっと態度が変わって、なぜかベストセラー小説も一緒に買い取ってくれたりする、そんなやりとりを重ねるうちに、古本屋さんへ行く時はその本屋さんの嗜好を考慮して本を売りに行くようになりました。

とまあ、本を増やしてなんとか収納するというより、出会いと別れをたのしむ感じ。ある程度思い入れがあって、何度も読む本は長く本棚に残りますが、それでもやっぱり所有欲のようなものはいつの間にか消えてしまったようで、図書館で同じ本を見かけると、別に手元になくてもいいか、という気持ちに。

文字を追うだけでいいのなら、今は電子書籍という選択肢もあるわけですが、やっぱり「モノ」としての本は魅力的。紙の質感と読書体験は切り離せません。例えば辞書。長く残っている本の中には、めくり心地のよい辞書というのもあります。さらにはカバーによってもまた読書体験が変わると実感したのはつい先日のこと。布編みでなんとなくブックカバーをつくり(写真)、ためしにある本をカバーしてみたらなんだかいい感じ。そのいきおいでもう何度も読んだその本をまた再読したのが、ちょっとこれまでとは違う読み心地だったような。

まだ電子書籍で何かを熟読、という体験はないのですが、もしかすると電子端末とその操作感、そしてカバーでさまざまな読書感をたのしめるようになるのかも。そういう意味では読書の未来というか、おばあちゃんになっての読書がかなり楽しみです☆

修理しながら使いたい。

今日は奥能登、珠洲市でメガソーラー発電所の着工式があるそう。昨日のNHKニュースでこの話をきいたとき、世論の変化のようなもの?をすこし感じました。たぶん、3.11以前だったら、こうした太陽光発電ニュースは報道されなかったのでは、と思います。

原発ってこわいな、特に地震の時はこわい。と、わたしが感じはじめたのは、2007年の能登半島地震の時で、ちょっとでもいいから自分にできることはないかしらん、と太陽光発電を自分で体験してみることにして、携帯や単三、単四電池を充電できるプチ太陽光発電ガジェット、バイオレッタソーラーギアVS01(写真)を入手したのが2008年のはじめのことでした。

あれから4年以上が経過。細々とした発電ではありますが、しっかり生活の一部になっていて、照明や時計などにこの電気を利用しています。一度、物干し竿(高所!)から落として動作しなくなったこともありましたが、メーカー(太陽工房)に相談して送ったところ、無料で修理して、しかも劣化した単三電池を新品のものにとりかえてくれました。故障といっても、蓄電部の電池と接続する金属の角度が変わっていただけだったそう。と、かなり丈夫な製品です。この調子でいけば、少なくとも10年はいけるんじゃないでしょうか。

ちなみに、太陽工房のサイトのトップページには、2000年10月から稼働している、つまりは稼働12年目の同製品が堂々とかかげられています。さらには、部分的な破損や劣化に対応して、スペアパーツの販売も用意されていて、なんとも頼もしい限り。

とまあ、この発電ガジェットは、多少こわれても修理しながら長く使えそうな点がかなり気に入っています。こういう製品、増えるといいな。

関連リンク
太陽工房のサイト
北陸電力、メガソーラー「珠洲太陽光発電所」の建設を開始|環境とCSRの専門メディア ecool(エクール)

2012年4月17日火曜日

ワンピースからシュシュ。

先日、実家の押し入れを整理していたら、布団がはいるような大きな箱が出てきました。開けてみると、その昔、わたしが小中学生だった頃に使っていた手芸道具や材料、そして作りかけの作品などがわらわら。

ずっと使ってなかったし、今も別に使わなくても生活できる、という意味ではゴミの山のような発掘品ですが、手芸する、という目でみれば宝の山。大量の刺繍糸に毛糸、はぎれの数々。

そしてその中にひとつだけ、なぜか小さなワンピースがまじっていました。たぶん、3〜4歳頃に着ていたと思われるその服は、上が真っ赤で、スカート部分がリンゴの柄の布。

もちろん、大人になったわたしは着れない服ですが、モノとしてかわいい。母がみるとなおさらそうだったのではないか、だからこの箱にとりあえず入れたのでは、想像するのですが、今のわたしがこのワンピースをみてまず思ったのは、「リメイクしたい!」でした。スカート部分の布の柄がちょっとレトロでかわいい。状態もいい。だから何かを作りたい。

シュシュなんてどうかしら、ちょちょっと縫えばできるし、と当初は縫い物をするつもりでしたが、ちょうどこの頃、布編み(裂き編み)手芸のことを知り、いくつか他の布でやってみたところすっかりはまったその勢いで、布編みのシュシュをつくりました(上の写真)。スカートはもちろん、リンゴの柄はちょっとカタチを変えましたが、かつて着ていたワンピースが、今でも使えるモノに変身しました。ワンピースの思い出つきなシュシュ。見るたびに、かつて自分が小さな女の子だったことを思い出す髪飾り♪

リメイクって面白い!と、これで味をしめたわたしは、さらにまた押し入れで見つけた別のワンピースのリメイクをしようと頭を悩ませています。今度は自分のではなくて、母のワンピース。パステルカラーのピンクでレースを多用したそれを母に見せたところ、作った時、着た時の思い出を話してくれました。

不思議なもので、そのモノにまつわるストーリーを聴くと、同じワンピースがずしっと重く感じられるようになり、簡単にはさみをいれるつもりだったのが、そうもいかなくなっている今日この頃。なにせオーダーメイドの洋服で、タグもなく、生地の種類さえわかりません。

そんな中、リメイク応援隊のようになった母が、昔わたしが使ってたミシンを出してきました。エンジンはかかりにくいのですが、一応動きます。んー、これがあれば服もできるかも、でもどうしよう…。


参考手芸本
かぎ針で布編み。―裂き編みで作るアクセサリー、バッグetc. (セレクトBOOKS) イシカワナナ