2012年6月21日木曜日

マーク・ボイル『ぼくはお金を使わずに生きることにした』

震災の影響もあってか、近頃は「片づけ」や「手放し」が大流行。経済や気候が極端な状態になって生活が崩壊する事態も世界中に発生してますし、人とモノの本質的な関係が問い直されてる時代なのかな、とも思います。

このブログも「ものとのつきあい方をていねいに考えてみよう」と思ってはじめたものですが、「もの」のなかに「お金」を入れることを忘れてたことを気づかせてくれたのが、マーク・ボイル著『ぼくはお金を使わずに生きることにした』というこの本。そう、お金ってある程度の人数の人が共通認識として価値を認めてるからいろいろなモノやサービスと交換可能なだけで、そうじゃなかったらただの模様のある紙、あるいは金属でしかありません。

そもそもは人々が助け合って生活していく上での便利な道具であるはずのお金ですが、あまりにも便利なゆえに現代人、特に資本主義先進国の人々はそれに依存しすぎているかも。わたし自身、なにかが必要になったとき、たとえば、100km先へ移動したいとなったら、まずお金が要るなあと考えがち。お金があれば電車やバス、タクシーなどが使えるし、誰かの車に乗せてもらうにしてもガソリン代を負担することが可能。というわけで、100km先へ移動するために、1)お金を入手する、2)お金を使って交通手段を確保する、というステップがすぐ頭に浮かんでしまうわけですが、「移動する」ことそのものを考えてみると、わたしは歩けるし、自転車にも乗れるので、特にお金を使わずに、という方法もあります。あるいは、たまたまわたしと同じ地点へ向かう人を見つけてとにかく乗せてもらう。ヒッチハイクすれば100kmの移動なんて簡単なことかも。

お金を使って移動する場合はたいてい、移動そのものは比較的短時間ですみ、心身もあまり使わないですみます。ただし、お金を入手するために、ある程度の労働や交換が必要になるかもしれません。一方、お金を使わず自力でなんとかする場合、たとえば、自転車での100kmの移動は苦行ともいえる心身の負担をともなうことでしょう。そして途中で自転車がパンクなど、故障するリスクもあります。そして、お金を使わず他の人に頼む場合というと、乗せてくれる人を探す、という労力と時間が必要になりますが、乗せてもらってしまえば身体は疲れません。また相手によっては会話がはずんでたのしい時間を過ごせるかも。好意を受け取り、感謝する、という心の交流が生まれる可能性もあります

ある晩、環境破壊など、世界のさまざまな問題について親友と話あっていた著者は、複数の問題の共通原因に「消費者と消費される物との間の断絶」があるのではないか、と考えます。上の移動の例でいえば、100kmのサイクリングを体験すれば、その同じ距離を車や電車で移動する際のありがたみが身にしみて、乗り物を運転している人や、乗り物自体、そして乗り物を動かしているエネルギーのことにまで考えがおよぶかもしれません。ちなみに、著者がまず挙げている例は食べ物。食べ物を自分で育てなくてはならなかったら、その三分の一を無駄にするなんてこと(イギリスでは実際に起きているそう)はしないでしょう。

その他もろもろ、お金のもつ負の部分に気づいた著者は、一年のカネなし生活実験を決意し実行。この本にはその一年の体験が描かれています。いわば、お金を「片づけて」「手放して」みたわけで、なんとも大胆ですが、この著者はすでに動物性食品を断っている、いわゆるビーガンで、お金がなくてもそれを貫いているのはもう冒険家のよう。さらに、クリスマスにはイギリス本土から故郷のアイルランドへ帰って家族と一緒に過ごす、という快挙もカネなしでなしとげてます。

お金を使わない生活というと、移動の例でいえばひたすら自転車をひとりでこぐ孤独なイメージをわたしは持っていたのですが、著者の場合はそうではなく、適度にヒッチハイク的な方法をとりいれて、かなり社交的な生活を実現しています。また、カネなし生活がさまざまなメディアに取り上げられたため、原稿書きやインタビュー、講演など、お金はもらわないものの、かなり社会ともかかわって相当に働いてるのが特徴的。

食べ物については、野外採集と栽培、スーパーなど街で捨てられている食材を収集、という方法を組み合わせ、バランスのよい食事を用意。薪割りからストーブづくりまで自分でやるのですから、相当に忙しい。そう、著者の場合、カネなし生活は、時間との戦いでもありました。

自給自足的方法、托鉢的方法、現代のホームレス的方法、古代の人の方法、ネットを駆使した最新のエコ団体的方法、ととにかくこの人って柔軟に対処法を見つけてるなあ、というのがこの本全体の印象。人を信じているがゆえにお金を使わない一年を有意義に、飢え死にすることなく過ごせたんだろうなあと思います。

この本を読む限り、カネなし生活は大変な冒険だけどとても魅力的。自転車での移動や、食物の栽培&採集、ロケットストーブ(燃焼効率がよく煙が少ない)の製作、ソーラーパネルでのエネルギー自給など、まねできそうなことは生活にとりいれてみようかな、そしたら世界がちょっと違ってみえるかも?とわくわくする読書でした。

ちなみにこの本は図書館から借りたので、お近くの人はぜひ借りて読んでみてください。

2012年6月16日土曜日

iphoneにバンパーを。

iphoneを入手したのは約半年前のこと。みるからに「繊細でもろそうな」ボディに不安を覚え、「落とすとこわれますか?」と店員さんにきいてみると、最短では買ってから一日もしないうちに落として修理に出すことになった人がいるとの話。iphoneカバーというものがやたらたくさん売られているのはこういうわけか、と納得しつつ、とにかくまずひとつ、とそのショップに置いてあったiphoneカバーの中からとにかくひとつ選ぶことにしました。側面と背面にはめこむようなタイプがカラフルで一般的なようでしたが、カバーする面積は大きいいいほうがいいかも、とマグネットで閉じられる手帳カバーのようなタイプをセレクト。

冬の間は結構快適に使えてたこのカバーでしたが、陽の光が明るくなるにつれ、黒という色が重く感じられるようになりました。また、iphone使用時にはマグネットをはずして前面をいちいち開けなくてはいけないのが面倒だし、写真を撮る時などは、この前面部分がぶらんとじゃまになるような。

さらには、気温が上がるにつれ、iphone本体が熱をおびることがあり、夏本番にはこのカバー、不向きかも、と思い始めた矢先、ついにわたしはiphoneを落としました。カバー前面をひらいた状態で。そう、このカバーの欠点は、カバー前面を開くと、iphoneが持ちにくいことでもあるんだ、と気づいたときにはもう時すでに遅く、iphone前面の角が落下の衝撃で欠けました。

が、幸いにして、iphone本体というか中身には被害はおよばなかったもよう。でももう、カバーは変え時だな、と次のカバーを物色開始。

それにしても、世にはほんとうにたくさんのiphoneカバーなるものが存在します。

例えば上の画像のように、全体をカバーしつつ、縦に開くタイプ。これだと、カバー前面をひらいてるときも、本体をしっかりグリップできそう。

落としてしまうことを前提に選ぶならこんなケース(バンパー)も。微妙な角度がついているので、机の上にiphoneを置くのも便利そう。また、どんな風に落としても、ケースがクッションになってくれるので、かなり安心です。

落とした時のことを考えるのも大事だけど、そもそもわたしの場合、カメラとして使っているといっても過言ではないiphone。トイなレンズをつけてみるのも魅力的…。

iphoneの背面はいっそのことカメラにしちゃって、三脚穴もついてるし、レンズを付け替えたりもできるし、カメラを首から下げるみたいにこのカバーをしたiphoneを首から下げたらとにかく安心かも…。

なんて、相当悩みましたが、ここでふと基本にもどって思うに「iphoneが単独ではもろい製品だったら、Appleが何かちょうどいいカバーを用意しててもおかしくないよね!?」というわけで、AppleStoreをチェック。そして純正バンパーなるものを発見。これが一番シンプルで最低限の安心を与えてくれるはず…。


そんなわけで今はピンクのバンパーを愛用中(って、まだ二日目ですが)。ちょうど、前回の落下で欠けてしまったところ(前面の角)をしっかりカバーしてくれるデザインにはかなりの安心感が。以前より相当に持ちやすくなったので、落とす確率は低くなったんじゃないかと思います。ただし、バッグなどに入れて持ち運ぶ場合は何かに包むなどして衝撃をやわらげる工夫をしたほうがいいかも。