2012年8月10日金曜日

『エンデの遺言』

今はすこし世論が変化してきた感がありますが、ちょっと前までは原発を止められない理由として「経済的ではないから」という説明をよくきいた気がします。そういわれると、「んー、経済には詳しくないしよくわからないけど、単純に考えて原発をやめると電気代が高くなって、そうすると多方面に影響が出るってことかなあ」となんとなく納得しそうになりますが、そこで原発のしくみをみてみると、燃料はそんなに「量」としてはいらなさそうだけど、なにしろ装置が大掛かりで制御が大変そう。しかも核廃棄物とやらがでてきて、その処理については、途方もない時間がかかることはわかっているけれども(10万年?)最終処分場は決まっていない状態。

ん、そもそも、原発ってなんで電気代が安くてすむんだろう?国が応援してたから比較的安いっていうのはわかるとして、発電した後の、核廃棄物の処理を考えたらとんでもなくお金がかかるのでは…。でもこれは、後のことだから考えないことにしたのかしら?モノの代金に、それを捨てるための費用がはいってないのと同じこと?ってことは、捨てる部分の負担は消費者、電気を使うわたしたちがするってことになるのかな?あれれ、核廃棄物って誰のもので誰の責任になるの?

前置きが長くなりました。この頃やっと「経済」と「環境」について考えるようになったわたくしですが、最近になって、子どもの頃の愛読書の作家、ミヒャエル・エンデが10年以上前にもうこの問題を考えて、で、NHKが番組をつくって本も出してだったことを知りました。で、まず、1999年に放送されたという番組を見てみたところ、無茶苦茶面白かった!!













2008年のリーマンショックあたりから感じていた、「そもそも今の経済システムっておかしいのでは?」という疑問に少し答えをもらえたような。ジゼルの「老化するお金」の話には、概念自体にいい意味でショックを受けました。

この番組で特に面白いのは、地域通貨のお話。利子がつかないことで循環するこうしたお金は、大恐慌後、1930年代に各地で発行され、地域経済を活性化したそう。具体的には、オーストリアのヴェルグルで使われた、「老化する(時間とともに価値が減る)お金」、アメリカのイサカアワー、ドイツの街ハレのデーマーク、スイスのヴィアの例が紹介されていました。どの通貨も購買力をその地域にとどめる働きがあるよう。

原発と同様、お金も人がつくったもの。経済システムを神様のように奉っていないで、危険な事故が起こらないか点検して、必要があれば変える姿勢が必要なんだろうけど、もし、そのシステムが自分にとって有利だったら、それをとめることがなかなかできないのが人間なのかもとふと思いました。

ところで、原発の核廃棄物処分場について、国内ではなくモンゴルで、というニュースが新聞に載ったことあったけどその後どうなったのかな?とググってみたところ、やはり構想としてはあるようで、先月の16日にはウランバートルの日本大使館前で脱原発デモがあったそう。モンゴルのウラン埋蔵量は世界一だとか。

ああ、ウランは危険だとわかってても、お金になると知ったら、採掘して売って、で、発電後の廃棄物も受け入れましょう、っていうのが「経済的」ってことになるのかな?そうだとしたら、そんな経済は、やっぱりどこか、変だと思う…。


関連リンク
モンゴル 日本大使館にデモ 「核廃棄物 持ち込むな」| 東京新聞

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