『エンデの遺言』の続編ということで読んでみました。特に、番組で紹介されていた地域通貨についてもっとよく知りたかったというのがこの本を読んでみた動機です。詳しすぎてちょっと読みにくいところもありましたが、「人のシアワセに通じるお金の使い方とは何か?」について考えさせられる、かなり刺激的な読書でした。
「お金」はあまりにも身近なものだけに、自分や他の人がそれをどのように使っているのか、またその使い方によって、自分たちの生活がどう影響されているのか、見えにくい部分があると思います。この本では、お金の歴史や経済学説、さまざまな地域通貨の実践例、「銀行」の問題点とそれを修正しようとする試みを紹介して、多角的に「お金」について考えさせます。
読んでるとだんだん、現代の金融システムを続けていくと地球は人の住めない星になるかも、食料は一部の人しか手に入らなくなるのかも、という気持ちに。といっても、現代の金融システムの常識はそう古くからあったとは限らず、たとえば、「お金が利子を生む」ことになったのはこの100年ほどのことで、なんと、キリスト教、イスラム教、仏教の世界三大宗教では、1000年以上にもわたって金利は不法だとしてお金に利子をつけることを禁じてきたとのこと(p.35 第一章 未来を奪う経済学)。さらに、デンマークやスウェーデンといった、エネルギー先進国では、無利子銀行の試みがあり環境問題に寄与していたこと(第五章 オルタナティブな銀行が始まった)、脱原発を宣言しているドイツでは1988年に誕生した「エコバンク」が、環境のためのプロジェクトに投資する一方で、原子力産業には出資しないというスタイルをとっていたこと(第六章 環境と共存めざす銀行・地域を支える銀行)を知ると、現代の金融システムは絶対的なものではなくて、人々の意識次第で変えていくことができるかも、とほんのり希望を抱きました。
もちろん、こういうことはまずは自分から、ですが。
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『エンデの遺言』
2012年8月30日木曜日
2012年8月10日金曜日
『エンデの遺言』
今はすこし世論が変化してきた感がありますが、ちょっと前までは原発を止められない理由として「経済的ではないから」という説明をよくきいた気がします。そういわれると、「んー、経済には詳しくないしよくわからないけど、単純に考えて原発をやめると電気代が高くなって、そうすると多方面に影響が出るってことかなあ」となんとなく納得しそうになりますが、そこで原発のしくみをみてみると、燃料はそんなに「量」としてはいらなさそうだけど、なにしろ装置が大掛かりで制御が大変そう。しかも核廃棄物とやらがでてきて、その処理については、途方もない時間がかかることはわかっているけれども(10万年?)最終処分場は決まっていない状態。
ん、そもそも、原発ってなんで電気代が安くてすむんだろう?国が応援してたから比較的安いっていうのはわかるとして、発電した後の、核廃棄物の処理を考えたらとんでもなくお金がかかるのでは…。でもこれは、後のことだから考えないことにしたのかしら?モノの代金に、それを捨てるための費用がはいってないのと同じこと?ってことは、捨てる部分の負担は消費者、電気を使うわたしたちがするってことになるのかな?あれれ、核廃棄物って誰のもので誰の責任になるの?
前置きが長くなりました。この頃やっと「経済」と「環境」について考えるようになったわたくしですが、最近になって、子どもの頃の愛読書の作家、ミヒャエル・エンデが10年以上前にもうこの問題を考えて、で、NHKが番組をつくって本も出してだったことを知りました。で、まず、1999年に放送されたという番組を見てみたところ、無茶苦茶面白かった!!
2008年のリーマンショックあたりから感じていた、「そもそも今の経済システムっておかしいのでは?」という疑問に少し答えをもらえたような。ジゼルの「老化するお金」の話には、概念自体にいい意味でショックを受けました。
この番組で特に面白いのは、地域通貨のお話。利子がつかないことで循環するこうしたお金は、大恐慌後、1930年代に各地で発行され、地域経済を活性化したそう。具体的には、オーストリアのヴェルグルで使われた、「老化する(時間とともに価値が減る)お金」、アメリカのイサカアワー、ドイツの街ハレのデーマーク、スイスのヴィアの例が紹介されていました。どの通貨も購買力をその地域にとどめる働きがあるよう。
原発と同様、お金も人がつくったもの。経済システムを神様のように奉っていないで、危険な事故が起こらないか点検して、必要があれば変える姿勢が必要なんだろうけど、もし、そのシステムが自分にとって有利だったら、それをとめることがなかなかできないのが人間なのかもとふと思いました。
ところで、原発の核廃棄物処分場について、国内ではなくモンゴルで、というニュースが新聞に載ったことあったけどその後どうなったのかな?とググってみたところ、やはり構想としてはあるようで、先月の16日にはウランバートルの日本大使館前で脱原発デモがあったそう。モンゴルのウラン埋蔵量は世界一だとか。
ああ、ウランは危険だとわかってても、お金になると知ったら、採掘して売って、で、発電後の廃棄物も受け入れましょう、っていうのが「経済的」ってことになるのかな?そうだとしたら、そんな経済は、やっぱりどこか、変だと思う…。
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モンゴル 日本大使館にデモ 「核廃棄物 持ち込むな」| 東京新聞
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原子力発電所のこと。
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前置きが長くなりました。この頃やっと「経済」と「環境」について考えるようになったわたくしですが、最近になって、子どもの頃の愛読書の作家、ミヒャエル・エンデが10年以上前にもうこの問題を考えて、で、NHKが番組をつくって本も出してだったことを知りました。で、まず、1999年に放送されたという番組を見てみたところ、無茶苦茶面白かった!!
2008年のリーマンショックあたりから感じていた、「そもそも今の経済システムっておかしいのでは?」という疑問に少し答えをもらえたような。ジゼルの「老化するお金」の話には、概念自体にいい意味でショックを受けました。
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原発と同様、お金も人がつくったもの。経済システムを神様のように奉っていないで、危険な事故が起こらないか点検して、必要があれば変える姿勢が必要なんだろうけど、もし、そのシステムが自分にとって有利だったら、それをとめることがなかなかできないのが人間なのかもとふと思いました。
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